美術作品を享受すること

 私は絵画作品で最初いいなと思ったのは中学の頃のKandinskiだったように思う。色やフォルムが面白いと感じていた。 
その後のことは、ここでは略するけれど"現在の"芸術作品にどんなものがあるのかということについて、1980年代末位から貪欲だった。当時は美術手帳や池袋西武にあったArt Vivant(今はNADiff、と言えばいいのか) で探していた。

ただ、人的リソース等の問題もあり、四六時中現代美術の最前線をチェックできていた訳ではなかった。 
そうこうしているうちに、何をフォローしても最前線でもないような気になり、きっとクラシック音楽愛好家みたいなかつての私がなりたくない立場の気分で、印象派シュールレアリスム絵画作品の回顧展等に行っているのだ。 
今の私に何の問題があるのだろうか? それを探しているうちに10年が経ちそうだ。

それとは別に、私が特撮作品を観ているのは、総合芸術の1つのあり方として享受しているというのもある。暴太郎戦隊ドンブラザーズの映像、いろいろと新しいのだろうけれど、そこで留まっていいのか?と自問自答している私でもある。

Ante festum patriam visitamus.

夕方近くになり、何となく故郷の大山を訪れた。

江戸時代から主要な交通インフラとして整備された(旧)川越街道として発展してきた大山の商店街、1978年にアーケードを作る等して商店街の分断に半世紀位抗ってきたが、
とうとう再開発が進んできたのを感じた。
https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bousai/machidukuri/chiiki/1006312/1006302.html
このBlogでも再開発のことが触れられている。
http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_81e8.html

お茶するところを探していて、居抜き物件感漂う
https://kameyakitchen.jp/
に入るとここは昔は履き物屋さんだった。私は大山在住時存在を知らなかったのだけれど、天井を見ると墨書きで"十二尺"等と書かれている古い材木がいくつも見えた。少なくとも戦前かもしかすると大正時代位に建てられたのだろうなと。私はテンション上がり、お店の人にその木材の撮影を許可してもらった。

その後、私がその際で生まれた千川上水の100年前の記録を絵地図として残してくれた大山の名士の花屋さん
https://haro.or.jp/shop/bireien.html
へ行き、名士のお孫さん(私の小学3-4年のときの同級生)と会った。同級生は3姉妹の真ん中で今ではワイフさんとインスタでつながっていて今回は私よりもワイフさんと話をしていた。

夕食は大山駅前のタイ料理屋
https://ruanmai-thairestaurant.jp/product-category/recommend/
私は片言のタイ語で話をしていたが、文字は書けない。Chang(Singha以外のタイビールを飲むのは初めてだった)を飲んだが、Singhaより軽い味だった。ワイフさんはタイに行くことを望んでいた。暑くなければね。

Personam non gratam definio.

1995年12月22日、P-MODELのLiveに行ったとき、
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インターネット新時代なんだろうなとぼんやり考えていたが、実際に自分がインターネットをやり出したのはそれから2年以上経ってからだった。また、自宅回線は実質的には2000年になってからだった。
その頃には 出会い系 と言う言葉が使われ始めていて、その時は「今迄出会ったことのない人と何か新しいことができる可能性のことか」と勝手に思い込んでいた。

2005年4月9日にmixiを始め、それ迄あちこちのBBSで知り合った人の多くが、当時かなり期待されていたそのSNSを介してつながったのだった。その他、全く知らない人ともつながる期待もされたが、口の利き方を知らないならず者が書き込むことが何度かあり、基本的に私の日記は友人の友人限定になった。基本日記やつぶやきを限定にしない人は、諦めていない忍耐力のある人なんだろうな。

私がまとめやくとなっているプレゼン会、いつルリ師匠が企画して15年位続いた王将会が母体になっているのだけれど、王将会のメンバーから面白そうな話をしてくれる人を募ってみた。残念ながら中には自分の話しかせず、それでいて自分の話を形にしたり、継続させたりする気のない人間がいてうんざりした。議論をする意思のない人間をプレゼン会に誘う私もどうかと思うけれど、そのときは面白そうな話をしてくれそうだからだったんだよな。「必殺仕置屋稼業」の第1話で、中村主水が仕置屋前から手下にしていた捨三の親友である破戒僧 印玄を、直感で仕置屋メンバーとしてスカウトした、あの感覚だったんだけれどね。殺ヲタにしか通じない例えだけれど。

プレゼン会は、結局は面白そうな話をしてくれそうな人、それでいて簡単に言えばシナジーしてくれる人じゃないと続かないよね。時間かけていくしかないよ。

私が2012年4月7日から関わっている某勉強会、これもいつルリ師匠のお誘いで加わったんだけれど、師匠と出会った1997年11月15日の段階では、多分私は面白い奴かもしれないが腐れジャンキーだから誘えないな、と思われたかもしれないよ。

23年前の今日

1998年3月8日は大友良英さん率いるGround Zeroの最後のLiveが行われた。
http://www.japanimprov.com/yotomo/groundzero/lastnotes-j.html
佐々木敦さんが書かれているように、大友さんが音楽活動に1つの区切りをつけたと
終わったとき、私も感じた。
先の佐々木さんの論評では、それから15年後に"あまちゃん"で名を馳せることになる迄は網羅されていなかったけれど。

1996年秋位から大友さんのLiveにはよく行っていた。ちょっとしたファンとして認識されていたと思う。主宰されていたMusic Merge Festivalでは、演奏者と客が一緒に中華料理をつまんでいるような環境だったしね。

それと大友さんとは関係なく、私自身"最先端の音楽"に必死でフォローする気力がこの日を境に失ってしまったようにも思う。その気力を何とか取り返そうとしているうちに、音楽を享受する環境も術もこの23年で大きく変わった。音楽を聴くためのコストも大幅に下がった。
また、過去の音楽からも多く学ばねばならないことがあるようにも思え、ここ数年はモダンジャズ(と言われる音楽)を聴く頻度が多くなった。

この先、私は音楽をどのように享受していくのだろうか?

発酵食品とMellotron

私がMellotronという楽器の存在を知ったのは、1981年10月頃、「ミュージックマガジン」1981年11月号で、当時再結成したKing Crimsonの記事に載っていたファミリートゥリーにRobert Frippの担当に(g, mellotron)と記してあったときであった。同時期私は「宮殿」を聴いていて、"Epitaph"等に使われている妙なキーボードの音に若干恐怖心を抱いていた小学6年生だった。

その後、主にプログレロックと呼ばれるジャンルの曲に多用されていたことを程なくして知った。そのうちにその楽器の醸し出す音色をあれこれ嗜むようになっていたが、ポリフォニックシンセサイザーが一般化した1980年中盤ではMellotronは無用の長物扱いされていた。ところがYBO2がmellotronを現行で使うバンドと知り(その他、ヒカシューでも井上誠さんが弾いていたけれど)まだ楽器として生き続けていると認識していた。

1990年も中頃になるといつの間にかMellotronは復権し、本物かサンプリング音源かは定かではないにしても、Mellotronの音色が再び、というか数10年前以上に認知が広がったかと思う。多分21世紀になってMellotronを知った人の多くは「宮殿」やMoody Bluesの「サテンの夜」等のストリングスの音色ではなく、Beatlesの"Strawberry Fields Forever"の、「フーッフーッフーッフーッ」のフルートの音色の印象が強いのだろうな。

 

当初、Mellotron(とその先祖であるChamberlin)は、アナログサンプラーとしてではなく、家カラシステムに近い電気楽器として開発された。特に、Chamberlinの開発者であるHarry Chamberlinはロックミュージックやロックミュージシャンが嫌いだったというから、最初からマーケティング対象になかったのだろうな。

 

 

先の「ミュージックマガジン」に載っていた鈴木慶一×山川健一の対談で"Epitaph"のMellotronの音色を「チャンバラ映画のエンディングで流れるぼろいストリングス」と表現していてそこで子供心ながらローファイ音源であることこそがMellotronの風味であると理解していた。

私は、Mellotronはサンプリング音源でいうと発酵食品に近い立ち位置だと理解している。ローファイな記録媒体を通じて、生音とは異なる音色に変質、一種の熟成したものとなっていると解している。

Harry Chamberlinが1940年代の技術で無理やり、そして期せずしてサンプリングマシンとして認知される電気楽器を作ったことが、この"熟成プロセス"を介在させたのだ。Chamberlinの製作があと30年位後になったらローファイな音源の楽器にはならなかっただろうから、その時代での技術によるかなり無理やりなものづくりは、歴史的に不可逆な特異な何かを生み出すことにつながるのだろうな。

*9. Sept. 2017*「役立つ電子6 ~オールリクエスト~」@水道橋 東京学院ビル

 

公式ページはこちら
http://blog.livedoor.jp/p_moblog/archives/52182847.html#more

いろいろとボケていて会場についていたのに間違えてしまっていたのかと引き返し、
日付を間違えたのかと思ったが、最上階で開催と知って事なきを得た。

【前書き】
会場に到着する前にForeignerの1st
http://www.foreigneronline.com/music?dd_id=37
(これが公式サイトの1stのページね)
を聴きながら移動していた。40年前当時からスーパーバンドと煽られて大ヒットしたのだけれど、1曲1曲アレンジがきめ細かくしっかりしているのに改めて気付かされる。3rdの”Head Games”
http://www.foreigneronline.com/music?dd_id=35
のタイトル曲も小学5年の頃でも1番と2番でアレンジに変化を持たせている(1番がシンセ多め、2番がギター多め)のを感じていたのだった。

【本編】
「役立つ電子」は平沢進さんとP-MODELの楽曲や映像等の解説を行う講演会なのだけれど、殆どがP-MODELの3代目ベーシスト(+ヴァイオリン等)で、その他何度となく平沢さんと共演してきた横川理彦さん
http://www.manuera.com/?menu=artists&name=%E6%A8%AA%E5%B7%9D%E7%90%86%E5%BD%A6
http://www.4dmode1.jp/cycle/#001
が、今回も楽曲と歌詞等について解説を行った。
私は学理を少しだけピアノを習っていた小学生~中学2年迄の間に習ったのだけれど、僅かな知識が血となり肉となりには程遠い。Miles Davisのモード手法についても"So What"を聴いてコードが平行移動する箇所がそれだよと随分と後になった気付いたものだ。1959年にリアルタイムで聴いたらその新しさに印象深く感じたのだろうけれど。

講演についても何故平沢さんの楽曲が特異に聴こえるのか、等を理論的に知ることがこの「役立つ電子」で段々とわかってきた。学理については感覚的にしか理解できていないことが多いけれど、逆に平沢さんの音楽と「役立つ電子」を通じて学理を知る契機になったというのでもいいのかなと思う。

David Byron雑考

先週の今頃、Uriah Heep
http://www1.odn.ne.jp/~cam83420/
と縁の深いLucifer's FriendのOFF会
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1958481790&owner_id=561327
があり、ヒープファンの皆さんと飲み会でいろいろとお話をした。

オリジナルメンバーのヴォーカリストDavid Byronは、
1969年の結成からよく声の通るヴォーカリストとして、
私もかなり高い評価な人だったんだけれど、どうやら大酒飲みだったらしく、
先日亡くなったJohn Wettonが参加した"Return to Fantasy"
http://www1.odn.ne.jp/uriahheep/04wetton/return.htm
の頃、レコードではそんなことはなかったんだけれど、
その頃のLiveをつべで観てみると声は出ていない、やる気が感じられない姿に唖然とした。結局John Wettonにサポートしてもらっていたし。
結局その次のアルバム"High and Mighty"(まだ聴いていない)
http://www1.odn.ne.jp/uriahheep/04wetton/04main.htm#HIGH AND MIGHTY
の後、1976年にアル中が原因でクビになった。その後、自分のバンドを率いていたのだけれど、1985年に38歳で肝硬変が原因で死んでしまった。
飲み会では、節度を知らないとか顔がブサイク(オレにはそんなのどうでもいいし)とか、
私の席では評価が低かった。その一方で、リンクを張ったファンページに常駐している人の中にByron信者の人もいる位の人でもある。

今現在もロックミュージシャンがヤク中だったりアル中だったりで身を持ち崩して死ぬ人も多いし、そのために数多くの人(家族だったり、いわゆるステークホルダだったり)が迷惑を蒙る。例えばDavid Byronの奥さんがオジーに対するシャロンみたいなしっかりものだったとすれば、アル中で死ぬ前に病院にぶち込まれただろうし、マネージャと折衝してヒープを去ることもなかったかもしれない。

ロックミュージシャンにも一種の格差があるのだろう。極端な例、Robert Frippなんか自分の資産のこと並びにその運用のことをよくわかっていて、加えて(ここはかなり共感するところなんだけれど(笑))King CrimsonのLiveの記録をしっかり残していて、抜かりない訳ね。多分、酒もたばこも少なくともDisciplineの頃には止めていて健康には気を使っていそうだ。これも歳を重ねる度に学んでいくことなんだろうけれど。かく言う私も、
長年の暴飲暴食の結果、健康診断の度に蒼ざめ、とうとうここ1年位になると酒の量を2杯位で大抵止め、食事の量も抑えめにしている。

ロックミュージシャンがRobert Frippは別としてもある程度の教養、とは違う生きるための知恵や世渡りや、「ヤクはあかんで」を教育する研修機関があればこうした格差も小さくなろうに、と考えもするがそんなのロックじゃない(笑)なんて言い出す人もいるんだろうな。